諦めとか妥協とか
BGM:Feel My Rhythm/Red Velvet
私はもともと完璧主義な要素があって、「理想の自分」というものがしっかりしている方だと思う。
そのおかげで実現してきた夢や目標が多い。
一方その陰で、「こう生きなくてはいけない」という理想像から外れていることに苦しんできた。
小学校低学年のとき、「漢字テストで満点をとれなかったかも」と号泣した。
留学中には「理想の留学生活」とは程遠いところに立ち、精神的にかなり追い詰められた。
今も、「あれをしなければ」「こうでなければ」という思いにとらわれてしまうことはまだある。
当然ながら人生において理想通りでなかったことは山ほどある。
高校生活、専攻、就職活動、体型、顔面、性格、人間関係。あげればきりがない。
理想通りでなくても満足できたことの方が多いが、後悔として長く引きずってしまうものもあった。
それが、最近少しずつ変化してきたように思う。
まあいいかと思えたり、理想から外れた時にはこう対応しようと考えを変えられたり、思考が変わってきたというべきか。
諦め=理想通りではない、ではないことに無意識に気づき始めたのかもしれない。
理想を諦めるということは、必ずしも悪ではない。
一般的に諦めや妥協という言葉はかなりネガティブな意味合いを含んでいる。
でも本当にそうなのか?
理想の何かを諦めるとき、必ず「理想ではない結果」がついてくる。
この「理想ではない結果」というのは本当によくないものなのか?
「自分には想像できなかった結果」と考えることができるのではないか。
客観的に考えれば、自分の想像力には限界があって、理想をさらに超えた在り方があるというのは当然のことだ。
経験を積めば想像の範囲は広がるが、それでもまだまだ限られているだろう。
今も「理想の自分」は存在していて、余裕がなくなると自分の理想に追い込まれることもないわけではない。
それでも少し落ち着いて考えられれば、「そうでなくてもいい」ということが分かってくる。
この瞬間を増やしていきたい。
親の望む通りに生きる私
BGM:Best of Korean Soundtracks
私は比較的人の望むように生きてしまう方だと思う。
学校では手のかからない、勉強も運動もできる優等生。
電車に乗るとき、道を歩くとき、人と話すとき。
こういう風にしたら喜ばれるな、こうしたら楽だろうな、といろいろ考えて行動することが多い。
それは、心のどこかで「人にされたいことをする」という考えがあるからだと思う。
やっぱり根底に幼い時に教わったことがあるんだなあ、良くも悪くも。
それはいつしか、家族の中でも、親の前でもそうなってしまった。
もちろん昔は無意識にやっていたか、考えなしに嫌な思いをさせていた。
でも、成長して、私は人の望むように生きがちだと自覚してからは、いろいろと意識してしまうようになった。
一時期はあまりにも気をまわしすぎて、家にいるのが、帰るのが本当に苦しかった時期もあった。
家を出た今も、実家に帰るとどうしても「いいこども」を演じる瞬間がある。
いいこども。
私は親に喜ばれる生き方を意識してする。
親にとっては別に悪いことではないと思う。
でも私はときどき考え方の違いに葛藤し、望む通りに生きられなかったときには罪悪感に苛まれる。
ドクターには調子が悪い原因が分からないと言っている。
確かにはっきりとした原因やきっかけではないかもしれない。
でも、私のこの生き方がじわじわと私を苦しめているんだろう。
今さら、どうしたらいいのだろうか。
罪悪感を感じると、それを打ち消そうと親に対して言い訳をする。
特に聞かれているわけでもないのに。
これが原因で近しい人と今までにないくらいお互いを傷つけあったことがある。
今でも私の中ではそれがわだかまりとして残っていて、いまだにぎこちない。
本当のところは分からないけど、相手も同じようなことで苦しんで、きっと私よりも先にこの葛藤から抜け出したんだと思う。
親を傷つけてでも、自分の生き方を選んだ。
手段は褒められたものではないけど、自分の意思を持って行動したその人はある意味うらやましくもあり、少し尊敬する。
親はたぶん、自分の考えを私に押し付けていることには気が付いていないんだと思う。
価値観の違いを除けば、本当に大切に愛してくれていて、今でも私の健康を願っている。
それは分かっている。
それでも、親の望む通りに生きる私はどこか苦しみから抜けられずにもがいている。
親を失望させたくない。でも、私の価値観で生きてみたい。
一方で、親の価値観を抜けたときに、私はどうなってしまうのかという恐怖もなくはない。
今までは言われたことをすれば間違いではなかったから。
自分の考えで、責任で生きていくことが果たしてできるのか。
…こうして文字にしてみると、考えすぎな部分があることもよくわかる。
それでも私はしばらくこの問題に悩んでいくんだろうな。
人は何でも意味を求めすぎ
BGM:Amazing Grace/SHINee
このテーマはもう少し温めておこうかとも思ったんだけど、今書ける他のテーマがあんまりなくて…。
いつかリライトするかも。
人は何でも意味を求めすぎ。
こう思うようになったのは、クリスチャンであることに、キリスト教に、教会に、牧師に、信者に、疑問を持つようになったから。
どうして人は宗教を信仰するんだろう。
何かいいことがあったとき、反対に、どうしてこんなに苦しいのかと思うとき、あるいは、奇跡だと思えるようなことがあったとき。神を信じる人は、これは神さまの示す道だ、与えられた試練だ、神さまの御業だ、そういう風に思う(少なくとも、私の周りはそういう人が多い)。
これって、本当にそうなのかな?
私は結構そう思ってしまう。
クリスチャンホームに生まれて、他の日本人に比べると宗教を持つ人(主にキリスト教)が周りに多くて、「神」という存在は当たり前で。最初はたぶん疑うことなく生きてきたし、なんだかんだ洗礼は受けているし。
でも、いつからか、こんな考えをするようになった。
もし、キリスト教が人間のつくり出したものだったら。
神がもし存在しなかったら。
復活も永遠のいのちもなかったら。
現状ではその可能性が高いようにしか思えないし、私の友達は神やキリストなんか全然信じてないし、今まで生き返った人なんかいないし…。
もし、キリスト教が違ったら、これまでささげてきた時間や、お金や、捨ててきた日曜日の予定や、友達に対する遠慮は、全部無駄なんじゃないか。
そう思いだしたら、心からすべてをささげることができなくなった。
奉仕をしていても、どこかで人間的な考えがよぎる。
クリスチャンコミュニティのリーダーをしていても、後ろめたさがずっとある。
教会の人に褒められるたびに、愛を受けるたびに、心苦しくなる。
でも、どうなの?
私の疑問に答えてくれる人はひとりもいないし、そういう疑問を話せるような雰囲気もない。
そうすると、私の思考はどんどん深くなっていった。
人は、なんでも意味を求めすぎなんじゃないだろうか。
人生に意味なんて本当はなくて、苦しみを乗り越えるために、安心感を得るために、意味づけをするんじゃないだろうか。
それはそれで、別に悪いことじゃない。
それで心の平安が保たれるなら、他に悪影響を与えることを防ぐなら、いくらでも推奨されるべきだろう。私自身、自分の平安のために神を信じ、委ねる(というより、任せる)ということはしてきた。
じゃあ、何が問題なのか。
私にとっての問題は、伝道とクリスチャンとしてのアイデンティティだった。
伝道ということは、神をまだ信じていない人に福音を宣べ伝えること。
でも、私にとっての平安の保ち方が、他の人にとってもそうであるとは限らない。むしろ、無神論者の多いこの日本では、宗教に対する嫌悪感を持つ人だって少なくない。そういう人たちに、自分の信じている神を伝える。そのことに、私はものすごい疑問と嫌悪感を覚える。
人に自分の神を伝えることも嫌だし、伝道を正義として(まあ、実際神様から大宣教命令があるから間違い?ではないんだけど)信者に強制?することも嫌だ。
すると、私のクリスチャンアイデンティティが崩れ始める。
私は神を信じているはずなのに、神さまの命令には従えない。
それって、クリスチャンなの?(圧倒的に違うよな…。)、ということになってしまう。
私は教会に一応行っているし(だいぶ問題はあるけど、それはまた今度)、神を信じているから、世間的にはクリスチャンだけど、クリスチャン界からしてみると、中途半端な信仰だし、伝道を拒否している時点でもうクリスチャンではない。
…じゃあ私ってなんなの?
このスパイラルにず―――――――っとはまっている。
これだけじゃない、クリスチャンやキリスト教界に対する不信もあって、でも世間的な考えにも染まり切れず…。
同じ考えを持ってる人っているのかな。
と、だいぶ話がそれて個人的な悩み放出になってしまったけど、私の持論としては、人っていろいろなできごとに意味を求めすぎなんじゃないだろうか。
生きる意味が分からなくて自ら命を絶っていく人。
そこまでいかなくても、鬱になったり、もっとレベルをさげれば、働く意味を見失ってる新卒がTwitterにあふれてたりね。
意味なんてないんだよ。
生命体としてたまたま生まれて、人類の歴史の中でいろんな意味づけを勝手にしてきちゃったってこと。
…。
断言できないけど。
まだ、キリスト教から完全に抜けているわけではないから。
生まれたときからこの環境だったら、一生抜けられる気なんかしないけどなあ。
どうなんだろう。
いまだにこの持論は確立していないし、自信もない。
ふと思ったこと。
本当はどうなんだろう。
箱入りの私
BGM:The Old Grugged Cross
書きたいネタはたまる一方、消化する気力もキャパもない。考えがまとまってないってこともあるし。
今日は、「箱入りの私」。
家庭環境的に、あんまり道を外れたことととか、特殊なこととかってあんまり経験してこなかったんだよね。
一般的な観点からみて特殊なことっていうのはクリスチャン界ではそこそこやってきたかもしれないけど、人生経験という意味だと、本当に最近、ここ数年の間に濃くやってきたような感じ?
とにかく、しらないこと、やったことないことが本当にたくさんある。
酒・たばこ、飲み会、合コン、一般的な恋愛、賭け事、ドライブ、年配の方との関わり、コンサート・ライブ、スポーツ観戦、ゲーム、テレビ、アニメ、SNS…。「普通の大学生」がやってきたようなことを全くやってこなかったなあ。
一般常識も本当になんにもない。歴史も化学も音楽も、浅すぎ。高校生以降で習うようなことはほとんど抜け落ちてる。有名な歴史上の人物も、政治も、世界的なミュージシャンやアーティストも、本当に何にも知らない。雑学がすっからかん。
それがどういう風に影響するかっていうと、主に、コミュニケーションに支障がでる。
会話をしていても、分からないことが本当に多いし、一般的な知識を前提に話されてもついていけない。当たり前のように経験が少ないから、留学をしたときはカルチャーショックというより、人としてのタイプの違いに驚きの連続だった。社会人から学生に戻ったり、何年も何年も学生を続けて資格を得ようとしていたり、挑戦していたり、周りを全然気にしていなかったり…。すごい良い影響を受けた。
とにかく、問題はコミュニケーションが薄っぺらすぎること。経験から想像する部分もあるんだろうけど、ソースが少なすぎ。偏りすぎ。最近、そういう意味では自分と正反対の人に出会ったから、嫌でも比較できちゃって、それもあんまりよくない。笑
結果、成功経験よりも失敗経験が圧倒的に多かったり、めんどくさくなったり、臆病になったり…。
ここまで育ててもらったことには本当に感謝するべきなんだけど、世界が狭すぎること、興味の範囲がどこかおかしいことは環境にだいぶやられている疑惑がぬぐえない。
なんだかなあ。もうここまで来ちゃったら自分を変えるにはそれなりのエネルギーが必要だし、時間とかお金とか気持ちとか、結構な余裕がいるはずなんだよね。
問題意識はずっとあるし、なんでこんななんだろうという自己嫌悪はかなりあるけど、モチベーションも気力もほとんどない。じわじわ変えていくしかないんだろうな。と思うと、気が遠くなるし、費やす労力を考えて落ち込んだり。
まとめ。
私は箱入り。変わりたいし。変わる必要があるけど、道のりは険しい。
(本当は記録としてもう少し具体的な事例とか残しておきたかったけど、勇気がない!)
思考の記録
BGM:BTOB
タイトルを迷った結果、なんだか抽象的な感じになってしまった。
考えが全然まとまっていないまま、手がキーボードを打つのに任せて書き進めております。多分まとまりもなく、分かりづらく、な内容になってしまうことでしょう。
今日の午後まで、わりと憂鬱というか、はっきり言って沈んでた。
この頃感情の波が激しくて、しかも低い位置で波打ってる感じ。
頑張りたい気持ちについていけない本音の部分が抗いまくった結果というか。
弱気な、後ろ向きな、暗い、モヤモヤした部分をまじめな気持ちが小さい体で必死に引っ張りすぎて疲れ果てた結果というか。
最近よく頭をよぎっていたのは、「心がすり減る」「体がついていかない」「こんな生活が永遠に続くのか」「つらい」…主にそんな言葉だった。
(今考えると、同じ生活がずっと続くことなんて経験からしてもめったにないのにね)
これは、「つらい」「大変」ということを必死に自分自身に訴えかけることが続いている、厳しめに言えばその場でうずくまって駄々をこねて、「自分はこんなに大変なんだよ!聞いてよ!慰めてよ!何とかしてよ!」っていう状態だったわけですね。
今日の午後やったことは、メンタリストやらモチベーションやらの動画をみたこと。つまり、正のオーラを持った人に近づいたり、どうしたらこの大変な状況を抜け出せるのか、具体的な意見や考えを持った人に聞きに行くってことだった。(正確には、もういろいろ考えすぎるのをやめたいな~、と思って、YouTubeで「考えすぎ やめる」って調べたんだけど)
これは結果的によかった。
これまでも、つらいな、考えすぎるな、ってときに音ゲーをして思考を止めるっていうことはよくやってたんだけど、今回はそこから一歩進んで、現状脱出を求められたのがよかったな。
友達に相談できなくても、親から答えを得られなくても、お金を払って自分に合ってるかどうかわからない本を買わなくても、ネットからいくらでも情報をかじれる時代に生まれてよかったなあと思ったり。
で、そこから得られたこと。
結論から言うと、「感情に関すること」だったんだよね。これって、結構前から自分の課題だなあと感じていたことなんだけど。冒頭に感情の波が激しすぎるって書いたみたいにね。
まず、感情を観察することでコントロールするっていうこと。
感情と行動を切り離すこと。
そもそもそうすることが必要なのか?を考えること。
感情がなかったらどうしているのか?→それを行動にうつそう、ということ。
常に3つくらいの道を、手段を考えよう、ということ。
なるほどなあ、ということばかりだった。
前に宣教師に「感情に支配されるな、信仰を信仰生活の列車の先頭にしろ」と言われたことに通ずるものがあるな、と思ったり。
今週を振り返ってみると(突然号泣した日もあったり)、やっぱり感情にものすごい影響を受けてたし、なんならものすごい振り回されたりしていたんだけど。
大事なのは、不安に思うことは普通の反応で、そう思う自分のことを否定したり、責めたりしないということ。
今日、昔からの友達で、ある意味先輩と長電話していたんだけど、その人も同じようなことを感じて、苦しんでいたんだな、となんとなく仲間意識を感じたり。
…やっぱりまとまりはなかったけど、学びあり、復習あり、慰めありの怒涛の午後でした。
継続したい!
BGM:BTOB
継続したい。
これは本当に難しくて、いつもいつも思うこと。
やりたいこと、やってみたいこと、興味があること、結構たくさんあるんですよね。
でも、じゃあやろうってなることは本当に少ない。
このブログも、長いことやりたいとは思っていて、そこからしばらくして開設して(この開設にも紆余曲折あった)、下書きは書くけど公開には至らず、ようやく書いたと思っても連投はできず…。
まあでも今こうして文章を書いてる時点でだいぶ成長してるわけだし、これは別のテーマになっちゃうけど、'LOVE MYSELF'を目指してる私にとっては十分なことなんだけど。
これまでに継続できなかったこと。
筋トレ、ストレッチ、ベース、ギター、脱毛、動画編集、デザイン、語学、模様替え、MYノートづくり、作曲、通読、ディボーション...。
数えればきりがない、と書きたいところだったけど、思ったよりはないかも。
同じことについて何回も感じてるのかな。
だし、挫折してるわけでもないのかなあとも思ったり。
しばらくやめてもまた再開することもあるわけだし。
それはそれでいいやと最近思うようになってきた。脱・完璧主義。いい調子、順調順調。
…いいことなんだけど、なんとなく残念にも思うかな。
熱しやすく冷めやすいんですよね。飽き性だし。いいんだけど。
…なんかあれだな。鬱々終わろうと思ったけど最近の自己肯定感の上がり具合がいいみたいで、まあいいやとなってしまう。いいことなんだけどさ。
しかも、完全に飽きるというわけではないんだと思うんだよね。
さっきも昔から集めてる気に入ったデザインとか包装紙とかが入ってる入れ物を整理してたんだけど、やっぱり見るたびにわくわくしたし、熱は完全には冷めてるわけじゃないんだなあと思って。
昔ほどああいうものを使って工作とかはしなくなったけど、いつかやりたいなあとも思うし、時がきたらなにかしらの形で昇華されるんじゃないでしょうか。デザインの大学行きたいっていう思いも最近あるし。遠い先の話だけど。
最近もう死んでもいいやと思うようになったんだよね。それはプラスの意味でもマイナスの意味でも。大きな夢がないし、現状もそんなに好きではないし。ワーホリしたいとか勉強したいとかも思うけど、もう留学も学生も経験したことだし、大人になるにつれて夢をかなえる難易度も上がったし、現実的なめんどくささとかも知るようになったからなあ。それを乗り越えてでもかなえたいってわけではないからなあ。今は。
人生が消化試合になりつつある。現状から急激に楽しいとか良いとかなることは見込めないし、あるとしたら相当気の合う友達が新しくできるくらいじゃない?それすらもそんなに現実的には思えないんだけど。
でもまあいいやと思う。現状そんなにだから死んでもいいや。やりたいこともほとんどやったからまあいいか。そんな感じ。これがいいことなのかは分からないんだけど。でもこの考えのおかげで以前ほど悩まなくなったし。自分の世界がまた狭くなってるからなのかなあ。でも今は広げようがないしね~。
だいぶ本題からそれてしまったが、でもやっぱりできるものなら継続したいとも思う。
精神的に健康な状態でね!!!
人生のテーマを決めたい。
BGM:amazon musicのkpopステーション
テーマが欲しいんですよね。人生の。
人生というと大げさだけど、要は意思決定の指標になるようなものがあったらいいなということ。
例えば、服。
いわゆる韓国ファッションも、ガールクラッシュが着るようなジャンルもあれば、ミニスカふわふわみたいなものもあれば、ベージュ系の服もある。(説明があまりにもへたくそすぎるが劇的な成長は見込めないので放棄)
どれもかわいいなーとは思うし、着てみたい。でも現実的に買える服の数は金銭的にもスペース的にも限られてるし、そうなると組み合わせとか着回しのためにはある程度私服のテーマなるものが必要なのではないか。
こういう時にテーマというか、好みとか系統が定まっている人はいいなあと思う。
私は全部着てみたくなって、結局大量に服はあるのに着れるものはないみたいなことになってしまう。最近はだいぶ改善されてきたように思うけど。
あと、テーマが決まってると好みにあうブランドも自然と決まってくるわけで、買い物がだいぶ楽になるんじゃないか。(単にファッションの知識がないともいえるが。)
インスタとかを見てるとファッションの投稿をしてる人はやっぱりテーマがあるし、投稿内容とか写真の撮り方、加工に至るまでこだわりがみえて、好みがはっきりしていていいなあと思う。
同じようにインテリアとか。一人暮らしの部屋を紹介するアカウントを見ながら、将来の部屋の想像なんかをするけど、好きなタイプがいくつかあって、結局微妙に統一感のない感じになってしまうんではないかといういらぬ心配までしたりしなかったり。
ヘアスタイルとかメイクもそうだし、カバンとか定期入れひとつ買うにもテーマがないからいろいろと迷う。そして統一感のないものを買う。はあ。
生き方もそう。ドMばりに努力するのか、ゆるゆる頑張らないで生きていくのか。この話もいつかしたいけど、宗教軸なのか無神論軸なのかとかね。(これは単に最近の私のわりと重めな悩み?)もっと細かいことでいえば貯金するのか、投資するのかとか。恋愛や家族を重視するのか、自分を第一に愛するのか。キャッシュレス派か現金派かとか。
考えだしたらきりがないけど、あれもそれも全部人生のテーマがあって、それに伴う判断軸があったらなあと結構思うのです。
もっと文章書くのがうまくなったら掘り下げて、きれいにまとめて書いてみたいような。
では今日も「生き方」に関連して本の購入品記録。
あやうく一生懸命生きるところだった/ハ・ワン(ダイヤモンド社)
死にたいけどトッポッキは食べたい/ペク・セヒ(光文社)
どちらも昨日インスタで見つけて、今日衝動買い。以前本当にズタズタな時に買った「私は私のままで生きることにした/キム・スヒョン(ワニブックス)」はそんな精神状態なだけあって、感動しながら1ページ1ページ大切にしながら読んだんだけど、今回は買ったことに満足してしまいそう…。今他に読んでる本もあるし、気が向いたら読書感想でも書こうかな。気が向いたら。